地域創造

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地域創造レター

News Letter to Arts Crew

9月号-No.041
1998.09.10(毎月10日更新)

●平成11年度支援事業助成要綱決定

●クローズアップ〜新規オープン注目施設紹介

●制作基礎知識シリーズ 美術編 (2)


平成11年度支援事業助成要綱決定

●平成11年度地域の芸術環境づくり支援事業助成要綱決定・申請受付開始
 
 財団法人地域創造では、地方公共団体が自主的に実施する、創造的で文化的な芸術活動の環境づくりに関する事業に対して財政的支援を行っています。平成11年度においても引き続き支援を行うため、次ページのとおり要綱を策定しました。
 
 内容は、平成10年度の要綱を基本にしながら、より効果的な支援を目指して、いくつかの変更を行いました。
 
今回は、支援事業の趣旨と主な変更点について、お知らせします。


●支援事業の趣旨
 
 支援事業の趣旨は、ア)〜エ)の事業を支援することを通じ、自主事業のプロデュース能力の向上や公立文化施設の活性化を促し、地域の人々が多彩な芸術活動を享受できる環境づくりに役立てることです。事業タイプに応じて、4つのプログラムがあります。
 
ア)長期的な芸術環境ビジョンをもち、事業運営等に顕著な工夫がなされ、段階的、継続的に行われるとともに、各地の関係者の参考となる情報を全国に発信する事業(創造プログラム)
 
イ)3以上の地方公共団体等が連携し、事業費の効率化やノウハウの交流をはかりながら取り組む事業(連携プログラム)
 
ウ)地域の人々の参画を得て芸術に対する理解と共感を広げる事業(単独プログラム)
 
エ)公立文化施設の企画運営に携わる職員に実践的な研修の場を提供する事業(研修プログラム)
 
 なお、助成対象は地方公共団体及び地域の芸術創造活動の振興を目的として設立された公益法人の企画、制作する事業に限ります。


●主な変更点
 
○助成上限額について
多額の経費を要する事業に対する助成上限額を引き上げ、規模の大きい事業への助成を充実しました。プログラム別の変更点は次のとおりです。
 
1)創造プログラム
助成対象事業に係る直接経費が1億円以上の事業に対して、1,500万円を上限額としました(従来の上限額は1,000万円)。
 
2)連携及び単独プログラム
助成対象事業に係る直接経費が5,000万円以上の事業に対して、1,000万円を上限額としました(従来の上限額は500万円)。
 
また、事業開催期間が長期のもの(実演芸術分野:概ね5日間以上、視覚芸術分野:概ね30日間以上)については、助成対象事業に係る直接経費が5,000万円以上の事業に対して、1,500万円を上限額としました(従来の上限額は1,000万円)。


●要綱の送付時期
 
8月上旬に各都道府県及び各政令指定都市に送付しています(市区町村へは、都道府県経由で送付します)。


●申請方法
 
10月30日(金)までに当財団へ申請書類を提出してください。
なお、市区町村、公益法人が申請する場合は、都道府県を通じて提出してください。


●平成10年度における助成申請受付・決定状況
 

表1 プログラム別申請書・決定状況



事業数

助成金(百万円)



申請

決定

申請

決定

創造

55

11

329

70


連携

14(66)

13(53)

209

143


単独

128

65

544

233


研修

3

2

6

4


200(252)

91(131)

1088

450

*()内は地方公共団体等の団体数

表2 芸術分野別申請・決定状況



申請事業数

決定事業数

音楽

68

25


演劇・舞踊

66

42


伝統芸能

21

8


美術・工芸

25

9


映像・その他

17

5


研修

3

2


200

91



●支援事業に関する問い合わせ
 
総務部振興助成課
上野・稲葉・長内(おさない) Tel. 03-5573-4050
 

平成11年度 地域の芸術環境づくり支援事業要綱へ

クローズアップ

今回は、この夏から秋に開館する話題の施設をクローズアップして活動内容などをご紹介します。
 
●滋賀県立芸術劇場「びわ湖ホール」
 
 全面ガラス張りのホワイエからは琵琶湖の大パノラマが一望できる。若杉弘を芸術監督に迎え、西日本初の本格的なオペラハウスとして構想。専属声楽アンサンブル(現在13名)の設立、年間70〜80ステージの自主事業など、ソフト事業に果敢に取り組む。特にオペラ事業では、新しいオペラの発信を目指す年1回のプロデュース公演(総監督・指揮若杉弘)を目玉に、海外歌劇団公演、青少年向けプログラム(コンサートとオペラ劇場)、専属アンサンブルの定期公演などを実施。また、その他のジャンルは、民間からプロデューサー(津村卓、楠瀬寿賀子)を登用し、彼らのネットワークを活かした集客力のある事業を展開。演劇・舞踊・ミュージカルでは、大作を中心にしたメジャーなプログラムで、近府県からの動員を図る。小ホールではクラシックを中心にした普及型の催しをシリーズ化して実施。このほか、広報マンとして市民の協力を仰ぐ「劇場サポーター制度」(定員100名)、夏のフェスティバルなど、民間のマーケティング力と公の安定した資金力が合わさった多岐にわたる取り組みで、その成否が注目される。


●滋賀県立芸術劇場「びわ湖ホール」
 
◎9月5日オープン
〒520-0806 滋賀県大津市打出浜15-1 Tel. 077-523-7140 柳本宜伸
[オープニング事業]オープニング・ガラ(9月5日)、ボローニャ歌劇場(9月25日〜)、県民オペラ マスネ作曲『シンデレラ』(11月21日、22日)、プロデュース・オペラ『ドン・カルロ』(99年1月16日、17日)、『NINAGAWA・マクベス』(10月24日〜)、青少年シリーズ(シンフォニーホール10月3日、オペラ劇場99年2月13日・3月13日)ほか
[施設概要]大ホール(1848席)、中ホール(804席)、小ホール(323席)ほか
[設置者]滋賀県
[運営者]財団法人びわ湖ホール
[設計者]佐藤総合計画


●長久手町文化の家

 町民による芸術文化の創造、交流、共有を目的に、町民が集う「家」として整備された総合文化施設。大小2つのホールのほか、各種専門練習室、生活工房などからなる芸術創造空間「アートリビング」を備える。「アートリビング」などでの町民の文化活動をバックアップするため、15名の職員(内企画・技術専門職員4名)に加え、『創造スタッフ』として若手の芸術家や研究者7名と契約。週8時間文化の家に勤務、講座やワークショップの指導、利用者へのアドバイスを中心に事業をサポートする。自主事業の核として、昨年10月、公募による町民主体の劇団と合唱団を結成。専門家による継続的な指導を行い、オープニング事業の中でデビュー公演を行う。将来的には、町民オペラの公演も計画している。また、長久手にある愛知県立芸術大学や地元芸術家との提携事業も積極的に展開する。


●長久手町文化の家
 
◎7月15日オープン
〒480-1131 愛知県愛知郡長久手町(ながくてちょう)大字長湫字野田農94-1
Tel.0561-61-3411 布川一重
[オープニング事業]大下久見子&セントラル愛知交響楽団公演(7月15日)、第1回長久手町地域演劇祭(8月29日〜)ほか
[施設概要]森のホール(800席)、風のホール(300席)、映像ホール(100席)、練習室、生活工房、アトリエ、展示室(100m2
[設置・運営者]長久手町
[設計者]環境造形研究所


●新潟市民芸術文化会館
 
 質の高い鑑賞事業の提供と、より専門的な市民の発表の場として整備された音楽ホール(アリーナ形式)、演劇専用ホール、能楽堂の3つの専用ホールを備えた文化会館。運営は、市民プラザ、新潟市音楽文化会館を含め市の文化施設を一体的に管理・運営する新潟市芸術文化振興財団。市民芸術文化会館を担当する職員数は33人(内固有職員17人)。音楽、演劇、総合芸術の3分野でアドバイザリープロデューサーと契約。鑑賞型の自主事業については、各ジャンルのプロデューサーの指針のもとに事業を決定する。注目されるのは、東京交響楽団との提携による事業。年5回の定期演奏会と、子ども向け無料コンサート(市内の小学5年生を無料招待)などを実施。そのほか、東京交響楽団側の提案で、今後、学校、福祉施設への出前コンサートを予定。また、新潟市音楽文化会館などを拠点に活動が盛んな市民文化団体の支援にも力をいれ、共催という形で、会場の無料提供、指導者招聘費用の助成などを行い、活動のレベルアップを図る。


●新潟市民芸術文化会館
 
◎10月22日オープン
〒951-8132 新潟県新潟市一番堀通町3-2 Tel.025-224-5616 田代雅春
[オープニング事業]東京交響楽団披露演奏会(10月23日)、開館記念特別演奏会「カルミナ・ブラーナ」(10月24日)、キーロフ歌劇場管弦楽団演奏会(12月1日〜15日4公演)
[施設概要]コンサートホール(1884席)、劇場(886席)、能楽堂(382席)、リハーサル室3室、練習室
[設置者]新潟市
[運営者]新潟市芸術文化振興財団
[設計者]長谷川逸子・建築計画工房


●秋吉台国際芸術村

 荒々しいカルスト台地の麓に立地する宿泊施設を備えたアーティストのための滞在型創作活動施設。建築家の磯崎新がヘリコプターで空から場所を選定。31ヘクタールの敷地内に野外劇場を備える本館棟、宿泊棟が並ぶ。プレ事業的に行われてきた「秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバル」がよく知られているが、芸術村のオープニング事業を最後に終了。諮問機関の「アドバイザリーカウンシル」が、公募プログラムの芸術家の選考や企画のアドバイスなどを行う。また、海外のアートセンターと提携し、日本で初めて定期的なアーティストの相互受け入れを実現。自主事業の柱は、4〜5日間の短期滞在型セミナー「芸術アカデミー」(年間3〜4事業程度)、海外のアートセンターと協力する3〜4週間滞在の「アーティスト・イン・レジデンス」事業、希望者を選考して2〜3カ月の滞在制作を支援する「レジデンス活動支援」(年間国内4名、海外3名。交通費、宿泊費、制作費月3万円の支援)の3つ。


●秋吉台国際芸術村
 
◎8月11日オープン
〒754-0511 山口県美祢郡秋芳町(しゅうほうちょう)秋吉中山田50番
Tel. 08376-3-0020 辻憲行
[オープニング事業]第10回秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバル(8月25日〜)、秋吉台建築アカデミー(9月15日〜)、「アーティスト・イン・レジデンス」(10月11日〜)ほか [施設概要]野外劇場(1000席)、コンサートホール(300席)、パフォーマンスステージ、セミナールーム、練習室、宿泊室36室(定員100)ほか
[設置者]山口県
[運営者]山口県文化振興財団
[設計者]磯崎新アトリエ

制作基礎知識シリーズ 美術編 (2)

美術館の歴史

講師 村田真(美術ジャーナリスト)

  公募団体系とインディペンデント系に二分されている日本の美術界の構造について紹介した前回の「制作基礎知識シリーズ美術編(1)」に続き、今回は「美術館の歴史」について大きな流れを辿ってみた。コレクションが基本の欧米の美術館に対し、なぜ日本ではハコモノが中心になったのか。美術館の現状を理解する上でもその歴史的な背景を知っておく必要があるだろう。


●美術館はコレクションから始まった
 
  美術館とは英語でいえばMuseum of Art、またはArt Museum。直訳すれば「美術博物館」となる。この「ミュージアム」の語源が、ギリシャ・ローマ神話の学芸を司る女神ミューズ(ムーサイ)に由来し、その最初の例が、紀元前3世紀アレクサンドリアに建てられたムーセイオンであることは、美術館関係者ならご存じだろう。しかしながらこのムーセイオンは、現在の美術館や博物館とは趣を異にしており、巨大な図書館を備えた、今でいう国際的な学術研究センターのようなものだった。
 
  近代的な美術館の萌芽は、ルネサンス以降に現れる。すなわち、古代美術への関心が高まり、王侯貴族たちが美術品を収集し始めたのがそのルーツである。初めにコレクションありき、なのだ。もっとも当時のコレクションは美術品だけでなく、貨幣、武具、遺跡の断片、鉱石、動植物の剥製など珍しいものならなんでも集め、ヴンダーカマー(驚異の部屋)として陳列していたという。
 
  だがそれは、あくまで王侯貴族の個人的な所有物であって美術館とはいえない。コレクションが美術館になるためには、一般市民に公開されなければならない。この一般公開の原則を促したのが、18世紀の啓蒙思想とそれに続く市民革命だった。こうして18世紀末からルーヴル美術館、プラド美術館、エルミタージュ美術館といった名コレクションを誇る大美術館が次々と開館していくことになる。雑多な展示品も、歴史や社会科学の発展とともに次第に体系化され、時代別、地域別、ジャンル別に分類・整理されていった。
 
  これらの美術館は、王侯貴族の宮殿をそのまま再利用したものが多く、また展示も、すでに価値の定まった古典美術の常設が中心だった。まさに「美術博物館」と呼ぶにふさわしい。建築家の磯崎新はこれを「第1世代の美術館」と位置づけたが、20世紀に入ると「第2世代」ともいうべき、印象派以降の同時代美術を扱う近代美術館が登場する。近代美術館の特徴は、いかなる作品も同じ条件で展示できる均質な空間「ホワイト・キューブ」を基本とし、常設コレクションだけでなく企画展示にも力を入れることだろう。その代表的な例が、ニューヨークの近代美術館(MOMA)、ホイットニー美術館、パリのポンピドゥー・センターなどである。
 
  さらに近年、空間そのものを作品化するインスタレーションにも対応すべく、「第3世代」の現代美術館も登場してくるのだが、少し先を急ぎすぎたようなので、今度は展覧会の視点からもう一度振り返ってみたい。


●展覧会は芸術家の主張の場
 
  展覧会が開かれるためには(美術館もそうだが)、作品が持ち運び可能でなければならない。ラスコーの洞窟画に始まり、モザイクやフレスコによる壁画、浮き彫りなど、ルネサンス以前の美術はほとんど建造物と一体化しており(第1世代の美術館のコレクションの多くは、それらを元の場所から引き剥がしたものだ)、また画家や彫刻家も、注文があればその地に赴いて制作する無名の職人だった。したがって、ルネサンスの時代まで展覧会という形式はありえなかった。
 
  ところが、14世紀に油絵が発明され作品が持ち運べるようになると、その場に出向いて制作する注文生産だけでなく、あらかじめ売れることを見込んで描く商品生産が始まる。特にそれが盛んだったのがオランダであり、そこから画商という仲買人も生まれた。こうして17世紀頃には、商品としての作品が市や街頭に並べられるようになった。それを展覧会とは呼べないにしても、少なくともその発端には、自分の名と作品を売りたいという芸術家の社会的・経済的理由があったことは間違いない。
 
  同じく17世紀のフランスでは、アカデミーの会員によるグループ展が始まり、18世紀にはルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間)を展覧会場とするようになった。ここから広く公式の展覧会のことを「サロン」と呼ぶようになる。18世紀末の革命後には、アカデミー会員以外にも門戸が開かれ、審査制が導入される。いわば公募展のはしりだが、審査員の大半はアカデミーの会員に限られており、それが保守的な芸術家と革新的な芸術家の対立を深める引き金になった。それを象徴する事件が、1863年の「落選展」である。
 
  その年のサロンはいつになく審査が厳しく、落とされた画家たちから不満の声が挙がっていた。それを聞きつけた皇帝ナポレオン3世は、落選した作品ばかりを集めて展覧会の開催を命じ、一般の人々に判断をゆだねる。そこに出品されたマネの『草上の昼餐』は、アカデミックなサロン絵画に見慣れた人々の間にスキャンダルを巻き起こした。結局、今では、マネのほうが歴史に燦然と輝き、サロンの画家たちは「ポンピエ」(陳腐な画家)として忘れられているのである。
 
  それに先立つ1855年には、クールベが、パリ万博に出品を拒否された作品による個展を万博会場の向かい側の建物で開き、1874年からモネやルノワールら印象派によるグループ展が、1884年にはスーラらによる無審査・自由出品制の「アンデパンダン展」が始まった。いずれもサロンやアカデミックな美術に対抗する目的で組織された展覧会であることに留意したい。
 
  こうして19世紀後半には、革新的かつ確信的な芸術家たちがサロンを反面教師として自主的に展覧会を企画し、近代美術の歴史に名を刻んでいくことになる。付け加えれば、それ以降の前衛たちはサロンだけでなく、美術館を含めた保守的な旧体制に異議申し立てを行うことで、20世紀美術推進の原動力とした。つまり、前衛たちは美術館をはみ出す作品をつくることで芸術概念を拡大し、美術館はそれを取り込もうとして第2、第3世代の美術館を生み出していったというわけだ。


●中身の伴わない日本の美術館
 
  日本に目を向けると、もちろん正倉院や社寺の宝物殿や書画会の類は昔からあったものの、ヨーロッパほどの物量を誇るコレクション熱もなければ、市民革命も新旧の闘争もないまま明治維新を迎え、欧米の美術館や展覧会の形式だけを流用していった。それが、前回も触れたように、コレクションもないのに建物だけで美術館と称したり、日本のサロンともいうべき公募団体展が幅を利かせる事態を招いたといっていい。
 
  それはさておき、日本の美術館は1872(明治5)年、湯島聖堂で開かれた博覧会に端を発する。この博覧会は、翌年のウィーン万博への参加準備を兼ねて、全国から古器旧物や剥製、標本などを集めたもので、しかも一時的な展示にすぎなかった。これが東京国立博物館の前身というから少々心もとない(*)。その後、国立博物館は奈良と京都にも設けられ、私立では大倉集古館、大原美術館、公立では東京府美術館(現東京都美術館)、京都市美術館などが誕生したものの、戦前までにようやく10館を数えるほどだった。
 
  爆発的に急増するのは戦後、しかもここ20年余りのことである。51年に博物館法が制定され、神奈川県立近代美術館、国立近代美術館(現在東京と京都に1館ずつ)、ブリヂストン美術館、国立西洋美術館といった主だった美術館が相次いで開館。70〜80年代には県制・市制100周年の記念事業として、バブル景気の追い風も受けて、全国に雨後の竹の子のごとく林立する。96年3月31日現在、その数686館。戦後、10年ごとにほぼ倍増してきたことになる。
 
  美術館が増えることは歓迎すべきだが、急激な変化は時に物事の本質を見えなくさせる。確かに20〜30年前に比べれば美術館を巡る状況は良くなってきているとはいえ、増えた数ほど質が向上したとは思えない。まだまだコレクションも企画展を組織する学芸員という人材も、それらを賄う予算も十分とはいえないのが現状だ。特に悲惨なのは、何度も繰り返すようだが、建物だけ建てれば美術館として事足れりとするハコモノ行政であり、レストランなどの付帯施設ばかり充実させるアミューズメント志向である。外見が立派であるほど、中身の貧弱さが浮き上がってくる。美術館の使命は基本的に良質のコレクションおよび企画展示を見せること、これに尽きると思う。


* 湯島で開かれた博覧会の事務局はその後、内山下町(現在の内幸町)に移って博物館と改称され、1882(明治15)年に上野公園に博物館新館が開館。所管も文部省から内務省、農商務省を経て1886(明治19)年に宮内省に移管され、名称も帝室博物館となった。こうして殖産興業政策の一環としての博覧会=博物館から、歴史美術を中心とする博物館へと発展していく。その後、帝国博物館と改称され、奈良、京都にも設けられたが、再び帝室博物館に戻り、1947(昭和22)年に文部省所管の国立博物館として再出発した。


●主要参考文献
 
「博物館学講座2 日本と世界の博物館史」 雄山閣出版
「現代美術館学」 昭和堂
「芸術学ハンドブック」  勁草書房
「土方定一著作集1 呪術師 職人 画家と美術市場」  平凡社
「NAGI MUSEUM OF CONTEMPORARY ART」 奈義町現代美術館
高階秀爾「芸術のパトロンたち」 岩波新書
イアン・ダンロップ「展覧会スキャンダル物語」(千葉成夫訳) 美術公論社
 

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