地域創造

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財団からのお知らせ

12月号-No.044


●芸術提供・共催事業のご案内



財団からのお知らせ


●芸術提供・共催事業のご案内
 
 財団法人地域創造では、地方公共団体等が主催する地域のニーズを踏まえた質の高い音楽、伝統芸能の公演などを共催しています。来年1月からは、すみだトリフォニーホールを会場に「地方都市オーケストラ・フェスティバル」が始まるほか、「能楽座」の公演や「英国デイヴィッド・コレクション展」が全国各地で開催されます。お近くの方はぜひご覧ください。
 
◎「能楽座」能・狂言公演
 流派の枠を越えて質の高い能・狂言の企画制作を行う「能楽座」の公演。12月以降は次の4会場で開催されます。
[会場/日程]亀岡市中央生涯学習センター/12月12日(土)、宮崎県東郷町総合文化センター/12月15日(火)、八王子市芸術文化会館/1月17日(日)、八戸市公会堂/1月23日(土)
 
◎英国デイヴィッド・コレクション展
 イギリスのパーシヴァル・デイヴィッド卿の中国陶磁コレクションから、宋、元、明、清の各時代の代表作80点を紹介します。 [会場/日程]大阪市立東洋陶磁美術館/12月12日(土)〜2月21日(日)、福島県立美術館/2月27日(土)〜4月4日(日)、山口県立萩美術館・浦上美術館/4月10日(土)〜6月13日(日)
 
◎第2回地方都市オーケストラ・フェスティバル
 3年にわたり、全国の地方都市オーケストラを紹介するフェスティバル。第2回目の今年度は1月から3月にかけて4つのオーケストラが出演します。
[会場]すみだトリフォニーホール
[日程/出演団体]1月31日(日)/神奈川フィルハーモニー管弦楽団、2月7日(日)/大阪シンフォニカー、2月28日(日)/仙台フィルハーモニー管弦楽団、3月7日(日)/大阪フィルハーモニー交響楽団(いずれも開演15:00)
 
○出演団体紹介
<神奈川フィルハーモニー管弦楽団>
 1970年に県内の若い音楽家たちによる「自主オーケストラ」として発足。以来神奈川全域を中心とする幅広い活動を続けている。現在では、1シーズンに10回の定期演奏会(会場:神奈川県民ホール、神奈川県立音楽堂、横浜みなとみらいホール)のほか、特別演奏会、各種コンサートや内外の主要団体とのオペラ、バレエの共演など、幅広い分野で活動している。
 
<大阪シンフォニカー>
 1980年創立。「聴くものも、演奏するものも満足できる音楽を!」をモットーに、定期演奏会(5回)と特別演奏会など、年間約20回の自主公演、オペラや合唱の公演、学校鑑賞会、ホールや団体・企業からの依頼公演と幅広く活動している。
 
<仙台フィルハーモニー管弦楽団>
 1973年に宮城フィルハーモニー管弦楽団として結成。1989年、仙台市の政令指定都市移行を機に本拠地の名を冠した「仙台フィルハーモニー管弦楽団」と改称。定期演奏会は、仙台市青年文化センター内コンサートホールを本拠に年間9回行っている。その他名曲コンサート、特別演奏会、オペラ、バレエ、移動音楽教室等演奏回数は150回に及び、地域に根ざした活動を目指している。
 
<大阪フィルハーモニー交響楽団>
 1947年「関西交響楽団」という名称で発足。1960年「大阪フィルハーモニー交響楽団」と改称。定期演奏会は、大阪フェスティバルホールで年10回開催している。海外演奏旅行は、ヨーロッパの3回をはじめ、北米、韓国、台湾でも行っている。レコーディング活動も活発で4回のベートーヴェン交響曲全集のほか、ブラームス交響曲全集とブルックナー交響曲全集のそれぞれ2回の録音をするなど、日本で一番多くのレコード・CDを出しているオーケストラである。


●芸術提供・共催事業に関する問い合わせ
財団法人地域創造  総務部 事業課
Tel. 03-5573-4056 稲葉岳

クローズアップ

開館20周年を迎えたピッコロシアターの歩みを振り返る
 
●勤労青年のCRS活動の拠点としてスタート
 
 ピッコロシアターは正式名称を兵庫県立尼崎青少年創造劇場という。この正式名称からもわかるとおり、そもそもこの施設は、勤労青年が文化活動を行う拠点として整備されたものである。なぜ、20年前に青少年のための文化施設が構想されたのだろうか。当時の時代背景を振り返ってみると、70年代に起こった第一次文化行政ブームで文化的な活動に対する気運が高まっていたのに加え、「各地に革新自治体が誕生した時期で、行政として新しい試みが求められていた」と同劇場の荻野良明次長は指摘する。また、新規事業の財源として法人県民税の1%を超過課税することが認められたのも文化施設建設へのはずみとなった。
 
 こうした流れの中で、兵庫県は、民間レベルでは整備できない勤労青年のための福利厚生施設の整備を計画。勤労青年のCSR(culture、sports、recreation)活動の拠点として、文化施設やスポーツ施設などを次々に建設していく(現在、CSR関連施設は県内19カ所)。ピッコロシアターは、中央労働センター(77年)に次ぐ2番目の施設として、1978年に、JR塚口駅から5分、阪急塚口駅から10分の、マカロニ工場跡地に建設されることになる。
 
 ではなぜ劇場だったのだろう。地域ごとに施設計画を検討するCRS委員会が設けられ、阪神地域(大阪と神戸の間にある7市1町)でも議論が行われた。そこにアマチュア劇団の代表者が参加していたのに加え、尼崎は職場演劇が活発で古くから演劇祭なども催されていたこともあり、劇場を求める声が強く上がったという。


●貸し劇場から演劇学校が生まれるまで
 
 ピッコロシアターでは青少年やアマチュアの利用が前提になっていたため、手頃な施設規模(400席)にアマチュアでも使いやすい広い舞台面と、今から思えば極めて理想的な劇場設計が行われた。一方、勤労青年への場の提供が目的だったため、自主事業費はほとんど計上されず、運営は建物の管理を中心に考えられていた。しかし、創造施設としての専門性は必要との配慮から、大阪の毎日ホールで企画宣伝業務を担当していた山根淑子氏を副館長(現館長)に招くことになる。知己の新劇人に協力を仰ぎ、ほとんどボランティアで文化セミナーをスタート。また、回数は少ないものの公開リハーサルや1、2日の「青少年のための演劇講習会」、「ピッコロ舞台技術教室」など、後の演劇学校の萌芽となる各種教室を地道に実施していった。
 
 こうした水面化の活動を集大成するかたちで、1983年、5周年記念事業として県から500万円の委託料を受け、本科1年(定員50名)の「ピッコロ演劇学校」が立ち上がる(84年には研究科1年・定員20名設置・現25名)。講義は月約10数日、平日夜を中心に行われ、最後は卒業公演で修了する。また、92年には、以前から行われていた技術教室を発展させた「ピッコロ舞台技術学校」(定員40名)も開校する。


●日本初の県立劇団「ピッコロ劇団」の設立
 
 かねてから演劇学校卒業生の受け皿として劇団の創設が要望されていたのを受けて、「県立ピッコロ劇団企画運営委員会」が設置され、1年間の検討を経て、1994年、開館15周年、演劇学校開設10周年記念事業として「兵庫県立ピッコロ劇団」が船出する。団員20名(現25名)、総事業費約1億9000万円、劇場向いには専用の稽古場兼事務所もつくられた。
 
 主な活動としては、日本を代表する劇作家の書き下ろしでプロのプランナーが参加する本公演やファミリー劇場、スタジオ公演、地域との交流事業(県内各地での交流公演や演劇セミナーの開催、地元のイベントでの太鼓演奏など)、高校の演劇コースへの指導者の派遣などを行っている。ちなみに昨年度のピッコロ劇団のステージ数は全部で30ステージ、平均年齢28歳、平均年収約230万〜250万円。契約は各人との専属契約で、県立劇団としてどのような処遇が望ましいか手探りで運営しているのが現状だという。
 
 ピッコロ劇団の特徴は、劇団代表として大阪芸大教授の秋浜悟史を仰いでいるものの、文芸部も演出部もなく、基本的に演技者しかいないという点にある。演劇学校のカリキュラムも、本科・研究科ともに、「劇表現」など演技の実技指導が中心となっており、劇団員として募集するのも俳優だけである。
 
 偶然かもしれないが、日本初の県立劇団がこうした「演技者の育成」からスタートしていることは、大変興味深い。劇作家や演出家という才能を発掘・育成するというより、地域に演技者というヒューマンインターフェイスを抱えることがコミュニティや町空間にとってどのような意味を持ち、地域がどのように潤うのか――船出から1年もたたずして劇団を襲った、あの阪神・淡路大震災。被災地の子どもたちとともに励まし合った激励公演のあり方が、ひとつの証明になったように思う。

(坪池栄子)


●ピッコロシアター(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)
[開館]1978年8月19日
[施設概要]大ホール(396席、舞台床面積648m2、間口13〜15m、奥行き15m、高さ6〜7m、舞台幅36m)、中ホール(可動200人収容)、小ホール(可動100人収容)、資料室など
[主な事業]鑑賞劇場(新劇、小劇場、落語、狂言、コンサートなど多彩。98年度は20数公演を予定)、文化セミナー、ピッコロ演劇学校、ピッコロ舞台技術学校、県立ピッコロ劇団
[運営]財団法人兵庫現代芸術劇場(地元有識者による「県立尼崎青少年創造劇場運営委員会」で劇場運営、新劇系の演劇人らによる「県立ピッコロ劇団企画運営委員会」で劇団運営を検討)
[受賞歴]97年度文化庁芸術祭賞・演劇部門芸術祭優秀賞、97年度紀伊国屋演劇賞団体賞、98年度尼崎市民芸術賞特別賞
[所在地]〒661-0012 兵庫県尼崎市南塚口町3-17-8


●1997年度事業費
ピッコロシアター総事業費約4億1700万円(内、人件費1億6500万円、管理運営費1億700万円、劇団運営事業費9600万円、劇団公演以外の自主事業費4900万円)※総事業費は受講料・入場料等の事業収入、人件費には劇団員報酬を含む

制作基礎知識シリーズ 美術編 (4)

美術館を飛び出したアート

講師 村田真(美術ジャーナリスト)

  90年代に入ってから、表現主義とかポップアートといったような新しい美術運動は影をひそめてしまった。そんな美術界内部の動向より、むしろ社会への接近を図る動きが目立つ。それは、社会的メッセージをもった作品の急増というだけでなく、美術自体を社会に投げ返すという動きに表れている。そうした傾向の一つが、作品を美術館や画廊ではなく日常空間で見せるパブリックアートや屋外展の隆盛であり、もう一つが、アーティストに滞在と制作の場を与えるアーティスト・イン・レジデンスの試みである。


●美術館から出たパブリックアート
 
  もともとアートはパブリックな存在であるが、ここでいうパブリックアートとは、美術館外の都市空間に出たアートを指す。それは、美術館という公共的ではあるが特殊な空間に囲い込まれたアートを、もう一度日常の場に取り戻そうとする動きだと言っていい。それによって、四角いハコの建ち並ぶ殺風景な都市空間に美的景観を与えるだけでなく、地域コミュニティを結束させるシンボルとしての役割も果たそうというのだ。
 
  欧米では60年代から盛んになり、公共的な建築を建てる時、工費の1パーセント前後をアートのために使うべしとの条例を設けている都市も少なくない。日本でも60年代から山口県宇部市や神戸市須磨で彫刻コンクールが開かれ、入賞作品が町中に設置されてきた。しかし、当時「野外彫刻」「環境造形」などと呼ばれた作品は、今見れば素材も形態もパターン化したものが多く、刺激や感動に乏しかったのも事実。近年“彫刻公害”と揶揄されるほど、地域に馴染めなかった作品が多いのだ。
 
  日本で「パブリックアート」という言葉が根づき始めたのは、ようやく90年代に入ってから。大規模なものでは、91年に新宿に完成した都庁舎のアートワークがある。38点の作品のほとんどは彫刻界の重鎮による旧態依然としたものだったが、1569億円の総工費のうち1パーセント強の約16億円をアートに費やしたことは(使い道には議論の余地があるとはいえ)、評価されていい。これによって以後、大規模な公共建築ではパブリックアートに予算の一部を割くという前例をつくったからだ。
 
  また、94〜95年に相次いで完成したファーレ立川と新宿アイランドは、日本のパブリックアートに新風を吹き込んだ好例といえる。このふたつのプロジェクトでは、それぞれひとりのアートプロデューサーがプランを決め、国際的なアーティストに制作を依頼。それまでの選定委員会方式による最大公約数的な作品ではなく、明確な方向性を備えた個性的なパブリックアートが生まれた。それらは、単に美術館から持ち出したような作品でもなければ、ほかの場所と交換可能な作品でもない、その場に根づいたサイトスペシフィックな作品なのだ。以降、こうしたプロデューサー方式を導入するところが増えている。


●日常空間でのアートの冒険
 
  パブリックアートに並行して、屋外美術展も90年代から全国各地で行われるようになってきた。その背景には、「地方の時代」の掛け声とともに始まる80年代後半の町おこし村おこし運動があり、バブル経済の追い風もあった。早い時期から定期的に開かれてきたものでは、岡山県牛窓町の丘の上や公園で行われていた「牛窓国際芸術祭」、山梨県白州町の森や田園を舞台にした「白州アートキャンプ」、福岡市の繁華街で繰り広げられてきた「ミュージアム・シティ・天神」(今年「天神」から「福岡」に改称)などがある。自然空間、都市空間の違いはあっても、その場所のもつ固有性や、その地域に住む人たちとの交歓を重視する点では共通している。
 
  例えば「ミュージアム・シティ・天神」の場合、地元の美術家、企業、行政の有志が寄り集まって90年に発足。以後2年に1度開催してきた。出品作家は毎回10人前後で、アジアと欧米の海外勢が半分、地元を含めた国内勢が半分というバランスの取れた配分だ。地域に根ざした展覧会を目指しているので、ただ作品をもってきて展示するだけでなく、作家に町を見せてその場で制作してもらおうと、今年度はアーティスト・イン・レジデンスを導入。これによって作家同士、あるいは作家と地域住民との交流も可能になった。予算は毎回3000万〜4000万円で、その8割が企業からの協賛、残りは行政や基金からの助成だという。近年は不況のため資金繰りが苦しいようだが、同展はこの種の展覧会としては成功しているほうである。
 
  さて、こうした屋外展に出品された作品は、パブリックアートと違って会期が終われば撤去されるが、見方を変えればテンポラリー(一時的、仮設的)なパブリックアートと考えてもいい。むしろ、公共空間に恒久設置するパブリックアートが、安全性や耐久性を第一に考えなければならないのに比べれば、屋外展のほうがより自由な表現が可能だという強みがある。パブリックアートが美術館のコレクションの常設展示だとすれば、屋外展はある程度の冒険ができる企画展示に例えられるかもしれない。いずれにせよ両者は、美術館に閉じこめられてきたアートを再び日常空間に出すことで、アートに社会性を取り戻そうとする試みだと言える。


●芸術家支援としてのレジデンス
 
  アーティスト・イン・レジデンス(以下AIR)は、芸術家がある期間滞在して自由に創作できるスタジオを備えた施設、およびそのシステムを指す。昔から芸術家は、パトロンに呼ばれたり国から派遣されて異郷の地で制作するのは珍しいことではなかったが、そのシステムを整備したものだと思えばいい。
 
  欧米ではすでに20〜30年前から行われているが、日本では、やはりこれも90年代からの動きである。代表的なものに、95年にスタートした茨城県守谷町の「アーカス」、埼玉県で毎年開催地が変わる「彩の国さいたまアーティスト・イン・レジデンス」、今年から始まった山口県秋芳町の「秋吉台国際芸術村」などがある。これらはすべて自治体の主催だが、中には埼玉県朝霞市の「丸沼芸術の森」のように、民間が運営する例外的なAIRもある。
 
  「アーカス」を例に取ると、ここはアジアと欧米から5人、日本から1人の若手作家を招き、約3カ月間の滞在中に自由に制作してもらうというシステム。レクチャーやワークショップなどを通して、地元住民とのコミュニケーションを深めるのも目的のひとつだ。システムとしてはうまく機能していると思うが、その成否を問うのはまだ早い。AIRの成否はひとえに作家が滞在期間中に何を得て、その後どれだけステップアップしていくかにかかっているからである。
 
  ところで、なぜ欧米でAIRが整備されてきたかというと、ひとつには、美術作品が従来の絵や彫刻のように持ち運び可能なものから、その場で制作するインスタレーションや、その場でしか成立しないサイトスペシフィックな作品に変わってきたということがある。そうなると、作家は出品依頼があるごとにその場へ赴かなければならなくなり、そのための制作場所としてAIRが必要とされるわけだ。付け加えれば、このような作品に対応するのが「第3世代」の美術館(本紙9月号参照)であり、AIRは「第3世代」の美術館とカップル、もしくはその延長上に位置づけることもできるだろう。いずれにせよAIRの基本的な考え方は、作品という「もの」より、それをつくる「ひと」を重視するということであり、一言で言えば「芸術家支援」にほかならない。
 
  一方、AIRには前述の「ミュージアム・シティ」や「アーカス」のように、作家同士や市民との交流を深め、相互に刺激し合うことで地域文化の活性化を促すという副作用もある。日本のAIRの大半が地方自治体主催である理由もここにある。しかし、AIRの主眼はあくまで「芸術家支援」であって、地域文化の振興という“副作用”を目的にすると本末転倒になりかねない。日本のAIRで起こるトラブルの大半は、こうした認識のズレに起因するものだと言っていい。ちなみに、欧米にはなにも制作しなくてもいい、自由研究もしくは気晴らしのためのAIRもあるという。そのために図書館や情報センターなどの設備を備えるほど、芸術家に敬意を払っているのである。
 
  美術館の起源を遡れば、紀元前3世紀に建てられたムーセイオンに行き着くが、それは「現在の美術館や博物館とは趣を異にしており、巨大な図書館を備えた、今でいう国際的な学術研究センターのようなものだった」と本紙9月号に書いた。このムーセイオンは、学者と芸術家の違いがあるとはいえ、才能のある「ひと」を支援するという点では現在のAIRと似ていないだろうか。美術館の歴史は巡り巡ってどうやら出発点に戻ってきたように思う。
 

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