一般社団法人 地域創造

制作基礎知識シリーズVol.7 舞踊編② バレエ、ダンスの構造と意味

日本のバレエ・ダンス界

 

講師 市村作知雄(芸術振興協会)

 

  日舞を除いた日本のバレエ・ダンス界は大きく4つの流れに分けられる。1つがバレエ教室とその発表会をベースにしているバレエ団の活動、2つ目が主に教育舞踊(体育として取り組むダンス)として発達してきた現代舞踊協会系のモダンダンス、3つ目が土方巽を創始者とする舞踏、4つ目がこうした流れとは独立して生まれてきている舞踏以降のダンスである。今回はこの4つの流れを概観したい。

 

●バレエ団の経済基盤と特徴

 

  日本のバレエ団は、基本的にバレエ教室の経営とその発表会によって経済的な基盤を確立している。こうしたバレエ教室に自分の子を通わせる親のリクエストは、「白鳥の湖」のような美しい舞台に自分の娘が登場し、それを家族、親戚、友人と観に行ったり、記念写真を撮ることにある。そのため、童話的で親の望む子どもの精神世界とよく適合した3大バレエ「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などがレパートリーとしてもてはやされてきた。

 

  世界では、大人の鑑賞に堪える新しい「白鳥の湖」や社会性を強く取り込んだ新しいバレエの創作も行われているが、教室経営によって成り立っている日本のバレエ界では、結局、子どもとその親の関心を超える作品の上演ができず、実験的な試みや新しい作品のクリエイションが行われないまま今日に至っている。

 

  舞踊界ばかりでなく、演劇界でも言えることだが、日本ではダンサーや役者を育てる教育育成機関と公演をする舞踊団、劇団が分離されておらず、いわゆる劇団制のもとに育成から公演までひとつの組織が責任を負ってきた。特にバレエ団の場合、教室経営で食べているため、他のバレエ団は営業上の競争相手となる。その結果、異なる団体に属するバレエダンサーたちの相互交流の道が断たれてしまった。教育育成の完了した良いダンサーを自由に使いたいと考えるこれからの振付家にとって、こうした劇団制は致命的な欠陥となる。この壁を取り払わなければならない時期が遠からずやってくるように思う。

 

●バレエの業界団体
  現在、日本のバレエ界は、バレエダンサー個人が加入する全国組織「日本バレエ協会」と4つのバレエ団で組織される「東京バレエ協議会」の2つのグループ(文化庁流に言うならば2つの上部団体)に分けられる。「日本バレエ協会」は、全国津々浦々にあるバレエ教室のほとんどが加盟している団体で1958年に設立、現在の加入者数は2330名にのぼっている。

 

  それに対して牧阿佐美バレエ団、チャイコフスキー記念東京バレエ団、スターダンサーズバレエ団、東京シティバレエ団の4つのバレエ団によって構成されるのが「東京バレエ協議会」(1971年設立。東京バレエ団の経営者であり、日本のオペラ興行界の首領、佐々木忠治氏のイニシアティブが強いと言われている)である。新国立劇場の舞踊部門の初代芸術監督が日本バレエ協会会長の島田廣氏、2代目が牧阿佐美氏であることからもわかるように、日本バレエ界のヒエラルキーはこの2つの業界団体によってつくられていると言える。

 

●新しい傾向

 

  ここ数年、海外から数多くのバレエ団が来日し、かなり大人向けの作品が上演されるようになったことで、観客層が広がりを見せ始めている。むしろ「白鳥の湖」などを見続けるクラシカルな観客とフォーサイスやピナ・バウシュなどを見る新しい観客に二極化しているように思われる。それにともない、3大バレエ以外の新しい作品も少しずつ公演され始め、かなりの観客を集めている。その意味で公立ホールも少し冒険をする時期にきているのではないだろうか。

 

  また、日本のバレエダンサーの中にも海外で活躍する人が出てきた。ジャンプしたり、回転したりする規定演技については世界の水準に達しているが、自分をどう表現するかについてはかなり不得手であると伝えられている。これも日本人の特徴かもしれない。

 

●現代舞踊協会とモダンダンス

 

  戦後まもなく、日本の現代舞踊の発展を目的とする舞踊家の組織「現代舞踊協会」の母体がつくられた。現在でも、現代舞踊協会は日本の現代舞踊家の多くを結集する最大組織として、全国でさまざまな発表会を開催している(1998年現在、会員数2200名)。

 

  しかしながらこの現代舞踊協会の舞踊と、現在かなりのブームとなっているコンテンポラリーダンスとは似て非なるものである。基本的に現代舞踊協会の舞踊は、戦後のアメリカ文化の強い影響のもと、マーサ・グラハムのメソッドを取り入れたアメリカンモダンダンスの普及をテーマにしている。それに対し、コンテンポラリーダンスは、モダンダンスもその後のポストモダンダンスも終わった後に、それを何とか乗り越える方法を探すことをテーマにしており、いまだその方法の模索の途上にある現在進行形のダンスである(ジャンルについては6月号の「舞踊編①」参照)。残念なことに、世界的にも見ても、「モダン」と「コンテンポラリー」の言葉の使い分けは極めて不明瞭になっている。日本でも同じで、現代舞踊協会の「現代」とはいつのことなのかと問うてみれば実感できるはずだ。

 

  日本の現代舞踊は、教育舞踊としても成立してきた。体育の授業やクラブ活動の一環としてある舞踊である。日本ではダンスはアートではなく、実に体育だったのである。その中心にお茶の水女子大学や日本体育大学が位置する。ほとんどの女性は体育でダンスをやることで極端にダンスが嫌いになってしまうのである。教育舞踊としてある現代舞踊の特色は、感情をどう表現するかがひとつのテーマであり、もうひとつは団体競技としてのマスゲーム的要素である。例えば、哀しみやそれを越えての歓びをマスゲームで表現していくと典型的な教育舞踊ができあがるはずである。

 

  現代舞踊協会系の舞踊は、現在でも教室による師弟関係を基にピラミッドが積み上げられ、その師弟関係が作品内容に大きな影響を与えてしまう。現代舞踊協会主催の新人公演に何度も参加していくことで、協会内の地位が形成されるのである。

 

●舞踏とその後

 

  さて59年土方巽(ひじかた・たつみ)は、作品「禁色」を発表し、日本固有のダンス「舞踏」が始まった。同時に土方ら多数が、所属していた現代舞踊協会を脱退し、現代舞踊協会と舞踏は以後40年別々の道を歩み、現在でもそのしこりは消えることはない。

 

  現代舞踊協会が教育的なものであるならば、この舞踏はその逆によって成立している。民主的な戦後社会と教育によって隠されてきたもの、それは「性」と「暴力性」である。心に潜む「異様」なもの、さらに西洋化に対する日本に土着するもの、動きについて言えば、西洋のダンスが上方への躍動を核として組み立てられているのに対し、舞踏は下方に引かれる力とスローな動きを中心に組み立てられている。80年に舞踏グループ山海塾がパリを本拠地にしたことで、舞踏は世界に確固とした地位を築くのである。

 

  80年後半には、舞踏とは別に、また現代舞踊協会とは無縁ところから多くの舞踊家が生まれた。その端緒となったのが勅使川原三郎である。パントマイムを基礎にしながら緊張感あふれた独自のスタイルを築きあげ、現代舞踊協会や舞踏に捕らわれることなく自由にダンスをつくれることを実証し、若い振付家に大いなる勇気を与えた。

 

●新たな才能の発掘のために

 

  現在、日本のダンスは、師弟関係を基礎にした現代舞踊協会を中心にした活動と、社会の中でダンスの成立を目指す舞踏やそれ以降のダンスの展開に大きく分けることができる。その場合の社会の中でという意味は、ひとりでも見ず知らずの観客を劇場に足を運ばせようとする意志と努力のことである。

 

  近年、ダンスを社会の中での成立させるために大きな役割を果たしている劇場やスペース、プロジェクトがいくつか生まれた。新しいダンスを見出すためには、このような場所に足を運ぶ必要があるだろう。

 

  新人の発掘のためには、東京の神楽坂にあるセッションハウスや天王洲のスフィアメックス、横浜のSTスポット。これらのスペースは若いダンサーにとって、この世界への入り口の役割を果たしている。そのような場所からステップアップを図るには西新宿にある パークタワー・ホールのアートプログラムがある。ここからは伊藤キムや井手茂太(イデビアン・クルー)など多くの振付家がでている。現在、関西で注目を集めるのがトリイホールと伊丹アイホールである。まもなく関西からも才能ある舞踊家が出現するにちがいない。

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