一般社団法人 地域創造

制作基礎知識シリーズVol.36 創造都市の基礎知識② 欧州とアジアの代表例から

講師 吉本光宏
(ニッセイ基礎研究所 主席研究員・芸術文化プロジェクト室長)

 

 「創造都市の基礎知識②③」では具体的な事例を紹介したい。今回取り上げる欧州・アジア(次回は日本)は、筆者が訪問、調査した時の内容がベースになっている。インターネット検索、関係者への問い合わせなどによって可能な範囲でアップデートしたが、必ずしも最新の状況とは限らない。なおナント市の最近の状況については、野口沢子氏(在パリ)に情報提供いただいた。

●ニューカッスル/ゲイツヘッド:アートで甦った造船技術と市民の誇り

 「The Angel has Landed(エンジェルは着地した)」。1998年2月16日、Evening Chronicle紙のトップページにはこの見出しとともに、設置途中のアントニー・ゴームリーの巨大な彫刻『北の天使(Angel of the North)』の写真が掲載された。高さ20メートル、幅54メートル、総重量200トンというこの世界最大のパブリックアートが設置されているのが、英国北東部のゲイツヘッドだ。かつて鉱山と造船で栄えたこの都市は、産業の空洞化によって80年代には失業率が15%に達するほど疲弊していた。
  町の荒廃ぶりは酷く、この町を訪問したエリザベス女王が列車のカーテンを閉めたという逸話が残されているほどだ。90年、街並みの美化などを目的に市はガーデンフェスティバルやパブリックアートを開始。その延長線上で実現したのが『北の天使』だった。この計画が発表された当初、市民のほとんどは反対(*1)。しかし、市議会はこのプロジェクトの実施を英断する。巨大な彫刻が工場から運び出され、設置されるまでの間に市民の意識は徐々に変化したという。「これを自分たちの町がつくったんだ」と。時に強風が吹き付ける小高い丘の頂に屹立するこの巨大な彫刻を建造し、設置できたのは、この町が培ってきた鉄鋼や造船の技術があってのことだ。北の天使は国内外で大きな話題となり、大勢の観光客が英国北東部の廃れた町を訪れた。
  かつて自分たちの町を支えた重工業の技術がアートとなって甦り、ゲイツヘッドの存在を世界中にアピールしたことで、市民は町に対する誇りを取り戻した。以後、隣接するニューカッスルと共同で、10年間に文化の基盤整備に約380億円を投入。20の文化施設や芸術機関が創設・改修され(*2)、60のパブリックアートが設置された。また、国際的な文化イベントやフェスティバルにも60億円を投入し(*3)、観光産業の経済規模は1,800億円に達した。大学も750億円を新校舎に投じ、今では市内の学生9万人の半数以上がこの都市にとどまる意向をもち、創造産業の起業への期待も高い。実際、こうした文化への積極的な投資の結果、5,000の創造産業や文化機関で6万人の雇用が生まれたとされている(*4)。
  2002年、ニューカッスル/ゲイツヘッドは米ニューズウィーク誌によって世界で最もクリエイティブな8都市のひとつに選ばれ、06年には文化に関する世界最大の国際会議World Summit on Arts and Cultureも開催された。

 

*1 アントニー・ゴームリー『北の天使』。地元の新聞紙上には「地獄の天使(Hell’s Angel)」「天井知らずのコスト(Sky high price)」「天使はご免(No Angel!)」「ばかげた飛行機(Plane Stupid)」等々の見出しが溢れていた(anthony gormley,gateshead council『making an angel』booth-clibborn editions, 1998)。

*2 代表的なプロジェクトは次のとおり。
2000年:ミレニアムブリッジ
2002年:バルチック現代美術センター(元製粉工場を再生した英国を代表する現代美術館)、ビスケットファクトリー(元ビスケット工場を改修した英国でも最大規模のコマーシャルギャラリー。地下には安価な美術スタジオを設置)
2004年:セージ・ゲイツヘッド(ノーマン・フォスター設計の新設コンサートホール)
2005年:セブン・ストーリーズ(国立児童書センター)
2006年:ダンス・シティ(小劇場とレジデンス施設の複合されたコンテンポラリーダンスの拠点施設)、ノーザン・ステージ(舞台芸術センター)
2007年:ライブシアター(拡張整備)、シアターロイヤル(リニューアルオープン)

*3 2002年には、ニューカッスル市とゲイツヘッド市が共同で欧州文化都市に立候補。リバプール市に敗れたものの、その際に創設されたニューカッスル・ゲイツヘッド・イニシアティブ(NGI)は存続し、カルチャー10という名で、文化イベントを次々と実施した。

*4 NewcastleGateshead Initiative『NewcastleGateshead: The making of a cultural capital』(2009)

 

●ナント:世界を魅了する文化ソフトの生産地

 「将来の展望を明るくするものはいったい何か。我々の将来はいったい誰に任せたらいいのか。それはアーティストに任せればいいのではないか、と我々は考えたわけです」─2005年4月、企業メセナ協議会の招きで来日したパトリック・ランベール氏の言葉である(*5)。
  フランス西部に位置し、ナントの勅令で知られるナント市は、第二次世界大戦後、産業・工業都市として栄えていた。しかし、1970年代に貿易や工業の中心だった港湾機能がロワール川の河口に近いサン・ナザール市へ移転すると、市内の造船所が閉鎖され、大量の失業者が溢れるなど、80年代には厳しい経済不況に直面。「眠れる森の美女」(美しくても活気のない街)と揶揄されていた。
  そんななか、89年に「文化による再生」を公約に当選したエロー元市長のリーダーシップにより(*6)、ナント市は文化都市へと大きく舵を切った。95年にはフランス各地の文化行政で実績のあるジャン=ルイ・ボナン氏を文化局長に迎え、市の10%以上の予算を文化に投入し、文化局600人という体制で数々の文化プロジェクトを立ち上げていった(*7)。そこでは、市民が地域の文化に誇りをもつこと、国際的に開かれていることが重視された。
  代表例はラ・フォル・ジュルネ。クラシック音楽を身近なものにするため、低料金、短い演奏時間、複数の演奏会の同時開催などをコンセプトにしたものだ。このクラシック音楽の祭典は世界中に広がり、日本でも5都市(東京、新潟、金沢、大津、鳥栖)で開催されている。
  また、廃屋となっていたビスケット工場をアートセンターに改修したリュー・ユニックもナント市の文化政策のシンボル的な存在となっている。だがナントの名を世界に知らしめたのは、ロワイヤル・ド・リュクスとそこから誕生したラ・マシンという2つのパフォーマンス集団だ(*8)。彼らは世界中で大がかりな野外公演を行い、注目を集める。つまりナント市は、世界を魅了する文化ソフトの生産地となっているのである。
  こうした文化への投資を継続した結果、ナント市はフランスで最も住みやすい町に選ばれ(*9)、人口は1990年の24万4,995人から2010年には28万4,910人に増加。有能な若手人材も集まり、ナント大都市共同体(約58万人)の学生数は約5万人。200のラボで2,200人の研究者がバイオをはじめとした先端的研究に取り組む(*10)。事業所数2万8,500、就業者数27万5,000人となり、毎年3,500の事業所が創設されているという(*11)。

 

*5 企業メセナ協議会『メセナセミナーシリーズNo.8:文化の地方分権がフランスを変える…ナントの実践』(2005)。ランベール氏は来日時はナント市第一副市長、2012年からナント市長に就任している。

*6 エロー元ナント市長は現在のオランド政権下で仏首相に就任している。

*7 2012年のナント市の文化予算は市の予算の12.7%、文化局の職員数は市の職員数の10%(CLAIR メールマガジン2013年2月)。

*8 巨大な装置を使ったユニークな野外劇で知られるロワイヤル・ド・リュクス(Royal de Luxe)は1979年にJean-Luc Courcoultによってエクサン・プロバンス近郊で旗揚げされ、その後トゥールーズを拠点に活動。89年からナントに拠点を移した劇団は、操業停止となった工場跡を拠点にユニークな巨大装置を製作するようになった。その動く機械を創作していたのがラ・マシンで、彼らは2008年に独立し、世界各国で独自にパフォーマンスを展開している。09年には横浜開港博のプレイベントで、2体の巨大な蜘蛛を操るストリート・パフォーマンスが大きな話題となった。

*9 リベラシオン紙で「満足している住民の一番多い街」(2000年)とされたほか、08年4月発行のLe Point誌ではフランス100都市の中で「最も住みやすい町」とされ、この時点で過去6年間、3回目の1位であった。

*10 BIOTHERAPY(ワクチンなど生物学的薬剤を用いる生物療法の意)を専門としたラボが集積するほか、保健衛生企業、国際的ビジネススクール、獣医学校、大学、ガン研究センター、大学病院センター、公立・私立の研究所などがあり、2005年にはフランス産業省によって「国際的競争力の拠点」に指定された。

*11 ナント市ホームページ掲載情報に基づく。

 

●釜山:映画祭の夢から生まれた映像文化都市

 釜山国際映画祭は、アジア最大規模の国際映画祭である。この映画祭は、現在のプログラムディレクター、キム・ジソク氏を含む映画評論家グループの「釜山で映画祭を開催したい」という夢から始まったものだ。キム氏たちは1990年前後に海外の主要な映画祭をリサーチ、韓国で国際映画祭の必要性を訴えたものの具体化の道筋は見えなかった。そんななか、95年に地元ホテルがシードマネーを提供、韓国文化界の要職にあったキム・ドンホ氏の後押しを得て96年に開催にこぎ着けた。
  アジア映画に焦点を当て、カンヌなど既存の主要映画祭とは一線を画した非コンペ方式を採用。アジア映画を対象にしたアカデミー(2005年)、マーケット(06年)、アーカイブ(07年)、ファンド(07年)などを次々と創設。11年には釜山フィルムセンターが開館し、昨年の映画祭では75カ国304作品を上映、22万1,000人の観客、1万人以上のゲストが来場した(*12)。
  釜山市も映画祭の成功を産業に結びつけるため「映像文化産業都市」を宣言。99年に釜山フィルムコミッションを創設したほか、2001年に250坪の映画スタジオを2棟整備、02年には映像ベンチャータウンを開設し、映画・アニメ・ゲームなど映像製作会社が入居した。また、市が中心となって釜山フィルムセンターを整備。08年には釜山ポストプロダクション機構を設置し、現像・編集・録音・CGを含むポストプロダクションすべてに対応できるようになった。専門人材を育成するため、18の地元大学に49の映画関連カリキュラム、2つの高校に映画特別プログラムも開講している。
  さらに新港湾の整備に伴い、旧港湾施設の集積する北港地区では153万m2という大規模な再開発が進行中だ。釜山北港を「アジアの観光文化都市」として再開発するため、国際旅客ターミナルを新設し、文化・レジャー施設等を誘致・整備する計画で、その一角には1,800席のオペラ劇場も計画されている。

 

*12 古い数字だが、2007年の映画祭の総予算は90億韓国ウォン(約8.1億円)で、50%が韓国政府および釜山市からの補助金、40%が民間企業からの協賛金、10%が入場料収入。また、06年の経済波及効果は約115億円であった。

※釜山市の記述は「横浜市(ニッセイ基礎研究所委託)、『国内・外の創造都市等に関する調査』(2009.3)等に基づいている。

 

 紙幅が尽きたため、詳しい紹介はできないが、2000年にルネッサンス・シティ・プランを策定して以降、芸術文化による都市の活性化、創造産業の振興を強力に推進するシンガポールもアジアを代表する創造都市のひとつである。こうした世界中の創造都市から代表的な事例をピックアップすることは極めて困難だ。
  本稿で取り上げた欧州の2都市は、重工業の撤退に伴いすっかり荒廃した都市が芸術文化の力によって活力を取り戻した事例、つまりチャールズ・ランドリーが提唱した創造都市の概念に沿ったものである。それに対し、釜山は背景もアプローチもまったく異なっている。しかしこれらの都市に共通しているのは、芸術文化への積極的な投資が産業や経済にまで波及し、都市の活力を生み出している点ではないだろうか。

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