一般社団法人 地域創造

特別寄稿 ビューポイント view point No.12

磯田憲一(安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 館長)

 

 エネルギー政策に翻弄された歳月をも「場の力」に昇華しながら、「アルテピアッツァ美唄」は、多くの人の心の中に確かな位置を占める存在として歩み続けてきました。微力でありつつも、その歩みに同行してきた者として、開設以来30年の「これまで」、そして「これから」をめぐる思いを、ささやかな「アルテ便り」としてお届けすることにします。

 

「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」(北海道美唄市)は1992年に開館した自然と彫刻が調和した芸術広場。炭鉱で栄えた美唄市出身の彫刻家・安田侃、市、住民が一体となって、土地の記憶をつなぐ木造校舎・豊かな自然・芸術が調和した美術館を実現。認定NPO法人アルテピアッツァびばいが運営し、展覧会や芸術広場をめぐるガイドツアー、石と向き合い自身の心を形にする「こころを彫る授業」などを通じて、芸術広場を「こころのふるさと」として後世に伝える活動を展開している。

 

●炭鉱都市・美唄の隆盛と衰退

 北海道の中西部、石狩平野の東に位置する人口1万9000人の美唄市。札幌と旭川を結ぶ中間地点に位置し、石狩川が南北に流れ、広大な空知平野の一角に豊かな田園風景が広がります。北海道では屈指の穀倉地帯と言える美唄市ですが、かつては、日本のエネルギーを支えた一大産炭地でした。大正時代の初期から開始された石炭生産は飛躍を続け、美唄市の人口もピーク時の1956年(昭和31年)には9万2000人を数えました。

 

 しかし、1960年代前半(昭和30年代)からのエネルギー革命の流れは押しとどめようもなく、1973年(昭和48年)には、美唄から全ての炭鉱の灯が消えることになります。石炭産業の隆盛と衰退は、美唄の歩みそのものであり、日本のエネルギーを支え続けてきた炭鉱夫とその家族は、その多くが心ならずも、このふるさと美唄に別れを告げ、哀しみの涙とともにこの地を後にすることになりました。

 

かつての炭鉱住宅と栄小学校

 炭住街として賑わいを見せていた地域に、炭鉱で働く人々の子どもたちが学ぶ場として1949年(昭和24年)に開校したのが、芸術文化交流施設「アルテピアッツァ美唄」の前身となる美唄市立栄小学校でした。ピーク時には1250名が在籍していましたが、時代の変遷の中で81年(昭和56年)3月に閉校することになります。68年(昭和43年)から併設されていた栄幼稚園は、引き続き校舎の一部を使用していましたが、美唄市にとっては、閉校後の校舎の利活用が大きな課題となりました。

 

 そうした折、北海道教育大学、東京芸術大学大学院彫刻科を経て、イタリアに渡り、ピエトラサンタで彫刻家として活動を続けていた安田侃(やすだかん)が、日本でアトリエを探していた時に再び巡り合ったのが、故郷・美唄の旧市立栄小学校の木造校舎でした。かつての賑わいが幻の世界ででもあったかのように、笹やぶや雑草の中にひっそりと佇む旧栄小学校…。安田侃の心をとらえたのは、エネルギー政策に翻弄された美唄の栄枯盛衰の歴史など知らぬげに無心に走り回る栄幼稚園の子どもたちの歓声でした。

 

「この子どもたちが、心をひろげられる広場をつくろう…」

 

 その思いが、美唄市の願いと一つになり、アルテピアッツァ美唄を開設する確かな一歩となりました。

 

●アルテピアッツァ美唄の開設

 芸術文化交流施設「アルテピアッツァ美唄」がオープンしたのは、1992年7月のことです。イタリア語で「芸術広場」と名付けられた空間は、炭鉱夫とその家族が暮らしを営んでいた炭住街の跡地を中心に広がっています。7万平方メートルを超す広大な敷地には、重さ数十トンに及ぶ大作から、旧校舎や旧体育館に置かれた40点以上の彫刻が、それぞれの場に溶け込むように配置されています。

 

 小高い丘に囲まれ、緑豊かな場所に立つ木造校舎。その一階は、市立栄幼稚園として長く使われてきました。2階部分の旧教室は常設の展示ギャラリーと、地域の皆さんが思い思いに作品発表のできる場所が併設されています。傷みの激しかった旧体育館も修復され、遠い昔の子どもたちの歓声を、その壁や天井に染み込ませた空間は、今、150人程度を収容するコンサートホールとして活用されています。

 

旧栄小学校の2階にある教室ギャラリー

 野外には、大小様々な大理石とブロンズ彫刻が点在しますが、94年には、幅18メートル、奥行き10メートルの石舞台が完成しました。イタリアでさまざまにカットされ、大型コンテナ5台で運ばれてきた大理石を組み立てたのは、イサム・ノグチを支え、そして安田侃の思いを知り尽くすイタリアの石工職人たち。その石舞台の横、広場の中央には、流水路と池が配置された「水の広場」が広がります。水路と池の底に敷かれた玉石もイタリアから運び込まれた大小さまざまな大理石で、1・5トンも入るボックス80個分の石が取り寄せられました。

 

 「水の広場」は、夏ともなれば子どもたちの歓声が響きわたります。かつて、炭鉱街を走り回っていた子どもたちの歓声と、今、無心に水遊びに興じる子どもたちの歓声が天空で混じり合い、アルテの丘にこだまする…、その人智を超えた不思議な響きが私たちの胸を打つのです。それは夏だけではありません。厳しい雪の季節でさえ、ソリ遊びに興じる妖精たちの歓声は、この地の天に響き渡り、厳しい冬の寒さを和らげてくれます。

 

流水路と石舞台(水の広場)

 アルテピアッツァ美唄創設以来、多くの人たちの努力によって紡ぎ出されてきたこの場の空気感は、他に変えがたいものです。その静謐な佇まいは、どの季節にあっても、この地に立つ人の胸を優しく包み込んできました。しかし、この空間は、決して自然そのものではありません。土地のどれひとつとして、人の手が加えられていない場所はないと言ってもいいでしょう。前述した通り、ここは、かつて暮らしの場として活況を呈し、そしてその賑わいがうたかたのように消えていった場所なのです。

 

 今、アルテピアッツァ美唄の野外彫刻として、最も人を惹きつけているものの一つ「天翔」は、丘の頂上の、逆ピラミッド型の窪みの中に置かれていますが、この丘とて、ようやく撤去した公営住宅跡地に、3年をかけて建設残土を盛り上げて造られたものです。

 

小高い丘の窪みに置かれた「天翔」

 今、アルテピアッツァ美唄には緑濃い風景が広がっていますが、時が自然を再生し、置かれた彫刻さえも時を積み重ねることで風景の中に同化することを願いながら、この空間が持つ“場の力”で新たな『にぎわい』を取り戻していくという壮大な地域変容の旅の途上にあるのです。

 

NPO法人アルテピアッツァびばいの設立とアルテ市民

 2005年8月20日、アルテピアッツァ美唄を運営する主体として、「NPO法人アルテピアッツァびばい」が設立されました(2014年2月認定NPO法人へ移行)。安田侃の思い、美唄市の願いを受け止めながら、厳しさの募る社会経済情勢の中での、困難を抱えたスタートでした。美唄市から受ける維持運営費のほかは、「入場料」を取ることもなく、会費や寄付金で賄おうということなのですから前途に立ちはだかる壁は容易に想像できることではありましたが、同時に希望の船出でもありました。これまでの、右肩上がりの経済的発展を支えてきた物差しを越えて、豊かさの新しい基軸を創造しようとする旅の始まりでもあったのです。

 

 アルテピアッツァ美唄のキーワードの一つは「おかえりなさい」です。故郷を持つ人も持たない人も、ここを訪れる人は誰もが「アルテ市民」になれる…。その願いを込めて「アルテ市民制度」も同時にスタートしました。「アルテ市民」の故郷、そして誰にとっても「わが家」のような場所でありたい…。そういえば、わが家に帰る時、人は玄関で入場料を払うことなどないではないか…。

 

 石炭産業の凋落とともに、人の気配の乏しくなった地域に芸術広場の火を灯し続けてきた「アルテピアッツァ美唄」は今、静かに自分自身と向き合える空間として共感を呼び、訪れた人たちの「懐かしい記憶」を呼び覚ましています。そして、心和ませた人たちは「また来ます」と言いながら帰途につくのです。その不思議な力は、何ゆえなのか…。

 

 それは、今そこにある「自然の佇まい」や「彫刻の価値」を語るだけでは説明できるものではありません。地底を掘り進むことの誇りと苦しみ、活況の果てに心ならずも故郷を捨てねばならなかった人々の涙、加えて季節を問わずアルテの丘にあふれていた、この空間を居場所とする子どもたちの歓声、それらがさまざまに織りなし相まって、私たちの今に力を与えてくれてきたと思えてなりません。

 

開設30年・思い新たに次なるステップへ

 2022年、私たちの芸術文化交流施設「アルテピアッツァ美唄」は、開設から30年の時を迎えました。すでに述べたように、私たちは、安田侃の彫刻群に加え、この地の持つ炭鉱の哀歓に満ちた記憶、そしてこの地を居場所とする子どもたちの歓声が織りなす、かけがえのない空間の維持に努めてきました。

 

 しかし、時間の経過の中で、より広い視野に立って取り組んでいかなければならない課題も存在しています。一例としてあげれば、心和む風景として、この地を訪れた人たちの胸を打ち続けてきた「美唄市立栄幼稚園」が、2020年3月、65年に及ぶ歴史に幕を下ろし閉園したのです。この場を居場所とする子どもたちの歓声は、時代を超えて、この空間に比類なき力を与えてきただけに、子どもたちの存在という、その普遍的とも言える価値の喪失は、この場や美唄の未来に大きな欠落を生じかねない事態なのでした。

 

 今、私たちは、幼稚園が閉鎖されたという事実は事実として受け止めた上で、美唄市が設置した「旧栄幼稚園利活用検討委員会」の2年に及ぶ討議を経て出された提言を踏まえ、美唄市とも連携し、「多様な幼児教育機能」の再生を目ざす役割を果たしていきたいと考えています。

 

 また、30年の取り組みを経てもなお、美唄市民の共感と参加が必ずしも十分ではない現実も謙虚に踏まえなければなりません。

 

 未来に向けてつくり続けられているこの空間にとって、「30年」は一つの通過点ですが、この機を、思い新たに次なるステップに向かう再スタートの契機として活かしていきたいと考えています。概括的に言えば、これまでの30年は、アルテピアッツァ美唄をどう「つくるか」に向けて努力を重ねる日々でしたが、これからの30年は、公共空間としての役割を踏まえ、この場をどう「活かしていくか」の視点で市民の財産としての意味を深めていかなければなりません。

 

 アルテピアッツァ美唄は、美唄のアイデンティティを内外に発信していく上で、唯一無二とも言える地域素材です。この公共空間としての素材を、時代が求める社会的役割を担うフィールドとして多様な形で活かし、広く発信していくことが、年齢や立場を超えた美唄の全ての人たちの「誇り」を高めていく確かな道のりと言えるでしょう。

 

 そうした視座に立ち、2022年8月、「アルテピアッツァ美唄・30年“次なるステップへ”」事業として、キックオフセミナーともいうべき生命誌研究者の中村桂子さんによる講演会を開催しました。「生きものとしての人間のつながり~生命誌からのメッセージ〜」と題した講演は、参加された皆さんにとって、感銘深いものとなりました。そればかりではありません。美唄市は、中村桂子さんの招聘を契機に、過去10年にわたり小学校で行われてきた農業体験の取り組みを、授業の時間割の中に「農業科」として組み込むという画期的な教育プログラムを2023年5月からスタートさせることになりました。日本では、福島県喜多方市でしか実践されていない先駆的な取り組みが開始されたのです。

 

次なるステップへ向けた中村桂子さんのキッフオフセミナー

 合わせて美唄市は、美唄の子どもたちに向けた中村桂子さんのメッセージを第一章に掲載した、日本初の「小学校農業科読本」を作成発行しました。農業を基幹産業とする美唄にとってはもとより、北海道にとっても、“農業”が秘める力に学ぶ「農業科」教育のスタートは、「100年の計」を築く一歩ともなるのではないか…。そうした画期的な発想の契機をアルテピアッツァ美唄という空間が担ったことは、時代が求める「社会的役割を担うフィールド」としての役割を果たした証左として記憶され、その集積が美唄ならではの「未来」を拓いていくことになるでしょう。

 

美唄市でスタートした小学校「農業科」読本

 さらに、2023年9月には、「子どもたちの歓声を美唄の力に」の旗を高く掲げ、「アルテの丘こだま基金」を創設しました。この活用を通じて、前述したように、この場に「幼児教育機能」を多様な形で再生し、市民の財産である空間の意味と役割を深めていきたいと願っています。

 

「子どもたちの歓声を美唄の力に」を掲げ、創設したアルテの丘こだま基金

 こうした方向性を踏まえ、美唄市とも連携協力しながら思い新たに「次なる30年」を目指し、これまでの経済発展の物差しにすり寄ることなく、豊かさの新しい基軸の創造に向けた挑戦を引き続き重ねていきたいと心しています。

 

 時代を共にする多くの方々のお力添えをどうぞよろしくお願いいたします。

 

磯田憲一 プロフィール

1945年旭川市生まれ。北海道庁職員として日本で初めて「文化権」を法令化した北海道文化振興条例の制定や公共事業の再評価システム「時のアセスメント」の導入などに取り組み、2001年から03年まで北海道副知事を務める。05年より公益財団法人北海道文化財団理事長、認定NPO法人アルテピアッツァびばい理事長、06年より「君の椅子」プロジェクト代表。編著書に『遙かなる希望の島「試される大地」へのラブレター』(亜璃西社、2019)、「君の椅子」プロジェクト編『3・11に生まれた君へ』(北海道新聞社、2014)がある。