一般社団法人 地域創造

特別寄稿 ビューポイント view point No.13

 神田・秋葉原エリアの一角に立つ旧練成中学校の校舎を利用し、開かれたアートセンターとして2010年に開設された「アーツ千代田3331」(以下、3331)が23年3月に閉館した。3331の統括ディレクターを務め、富山県氷見市「himming」、秋田県大館市の「ゼロダテ」、「東京ビエンナーレ」など社会とアートの新しい関係性を模索する地域再生型アートプロジェクトを多数展開してきた中村政人氏に、3331の取り組みを振り返ってもらった。

中村政人(アーティスト、東京藝術大学絵画科教授・副学長、東京ビエンナーレ総合ディレクター、3331ディレクター

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●街を舞台にしたプロジェクトの延長に生まれた3331

 2010年から23年まで地域に開かれたアートセンターとしての実践を積み重ねた「アーツ千代田3331」は、1990年代の僕のアート活動の延長線上に生まれたものです。この頃、僕は美術館やギャラリーといったアートのための場所ではなく、街を舞台にした自主プロジェクトを度々行っていました。30 名を超えるアーティストが銀座の街角で作品を発表した「ギンブラート」(1993年)、新宿歌舞伎町の屋外空間や店舗内で80名以上のアーティストが作品発表や制作を行なった「新宿少年アート」(1994年)などです。

 

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アーツ千代田 3331 外観

 

 中でも3331につながる活動として大きかったのが、1999年2月から3月に秋葉原の電気街を舞台に展開した「秋葉原TV」です。これは、12カ国34名のアーティストがそれぞれ1分以内の映像作品を制作し、それらを1本に繋いだ映像を、32軒の電気店の店頭にある約740台ものモニターで延々と流し続けるプロジェクトでした。先述の2つのプロジェクトがゲリラ的だったのに対し、秋葉原TVは1997年に僕が立ち上げた団体「コマンドN」が主催し、協力店との交渉を経て実現したものでした。

 

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「国際シティビデオインスタレーション 秋葉原TV」プロジェクト(1999年、2000年、2002年)を展開した秋葉原の街(2000年)

 

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秋葉原TVでの展示作品 中村政人《ホロニクス》(2002年)

 

 「秋葉原TV」の着想は、1992年当時に留学していた韓国のチョンゲチョン、通称「泥棒市場」で見かけた街頭モニターの光景です。映画『ブレードランナー』のようなカオスな市場で、突如モニターにNHKの大相撲中継が流れた! なぜ韓国で日本のライブ中継が? まだインターネットが普及するはるか前のことで、おそらく自作のチューナーやアンテナで日本の電波を勝手にキャッチしていたのだと思います。この異国で見た光景は、僕に「ハード(モニター)とソフト(大相撲中継)はこんなに自由に使って良いのか」という驚きを与えました。

 

 当時から僕には日本の戦後美術がどんな制度の上で発展してきたか関心がありました。 日本では1980年代に、美術界の要望や経済の勢いもあり、全国に公立や私立の美術館が次々に誕生します。一方、学生として赤瀬川原平さんらが1960 年代に屋外で展開した過激な活動を学んでいた僕からすると、美術館の建設ラッシュは社会から切り離されたハコだけが増えているような違和感がありました。僕が1990年代に街頭での活動を行なったのは、赤瀬川さんたちのような活動を自分たちでも試してみたいと思ったからで、韓国の街頭で感じた自由さがそのきっかけになりました。

 

 秋葉原電気街振興会に始まり、サトームセンや石丸電機などの経営者、さらに各階のフロア長へと進めた交渉の結果、僕たちは多くのモニターの使用権を得ました。あるアーティストの新作映像が、通行人にとってはテレビジャックによるビデオレターのように目の前に現れる。それに気づいた通行人は、それだけで普段とは異なる視点で街を見始めるのではないか。

 

 つまり、表現が生まれる純粋な状態、それを形にするための切実な交渉、そして結果として現れる逸脱性がそこにはある。秋葉原TVには、僕が後に「アート」の説明として使うことになる「純粋×切実×逸脱」を街角において実践したプロジェクトでした。

 

●「地域に開く」ための具体的なプログラム

 コマンドNは、最初の拠点だった上野1丁目から何度か移転し、2005年から神田錦町でプロジェクトスペース「KANDADA」を運営していました。同じ2005年に練成中学校が閉校し、その活用に関して千代田区が「ちよだアートスクエア検討委員会」を設け、区民の代表や文化施設、大学、NPOの関係者などによる議論が行われました。地域で活動する僕もそこに参加しました。そして、千代田区が実施した施設の再生事業者の公募に自ら応募することを決意し、地域再生やデザインなどの専門家に声をかけ、「合同会社コマンドA」を設立し、施設の改修プランや経営を含む事業計画を固めていきました。

 

 KANDADAを運営しながら、僕は「なぜ東京にはアートセンターがないのか?」と疑問に思っていました。24時間いつでも作業可能で、小学生からお年寄りまでふらっと入れて、物品や作品の販売も自由にできる施設がなぜないのだろう。それで、3331の1階に建物前の公園の延長として誰もが無料で使えるコミュニティのためのコモンスペースを設計しました。

 

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アーツ千代田3331
上から、メインギャラリー|コミュニティスペース

 

 人は誰もが創造する主体なのだから、幅広い人たちがそこを消費のためではなく、創造のための場として使ってほしい。3331の立ち上げでまず重視したのは、そういう施設を地域に開くことでした。

 

 「地域に開く」というのは、単に門を開くだけではなく、町会の人や地域で働く企業の人たちの思いを踏まえ、そこに接続できる仕組みを作ることです。「地域の人」と言っても、徒歩圏内の人、電車で来る人、飛行機で来る人までさまざま考えられるので、それぞれに対応するプログラムを考えていきました。

 

 たとえば、一人暮らしのお年寄りも多い町会に対しては、高齢者の方が参加できるワークショップを行なったり、飛行機で来るアーティストに対してはアーティスト・イン・レジデンス・プログラムを用意したり。そうして具体的に必要なプログラムを考えていきました。

 

民設民営施設として運営するためのマネタイズ(収益化) 

 3331を構想する上では、当然、お金の問題も立ちはだかりました。よく誤解されるのですが、3331は公設民営ではなく、民設民営の施設です。3331を始めるにあたって、施設の基本構造の部分に関しては区が負担してくれましたが、そのほかの改修費用はコマンドAが負担しました。具体的には、自分たちで5000万円ほどの資金を用意しました。もちろん工事にかかる責任も僕にあります。

 

 3331はコマンドAが千代田区と普通財産賃貸契約を締結し、5年単位で借りて運営していました。ここでの一番のポイントは、千代田区が賃料の交渉に前向きに応じてくれて、我々でも支払えるように賃料を設定してくれたことです。東京の坪単価は高額で、丸の内あたりで物件を借りると坪3万円にもなり、10坪借りるだけで30万円。これでは我々にはとても支払うことができず、アーティストもそうだと思いますが、東京で活動を行う制約になっていました。徐々に3331から収益を上げられるようになり、最後は年間約1700万円の賃料を千代田区に支払っていました。

 

 ちなみに、3331ではスペースをテナントに賃貸して収入を上げていましたが、賃料はテナントの活動の性質に合わせて設定していました。たとえば収益性のある事業を行っている団体は坪単価1.5万円、非営利活動団体などには7000円など。3331全体でバランスを取り、運営が継続できるよう設計していきました。

 

 ただ、千代田区との賃貸契約が1期5年だったのは不安材料でした。端的に言って、5年で投資を回収するのは厳しく、スタッフの雇用も不安定ですし、投資もできない。結果的に、延長も含めて2期13年の契約となりましたが、民設民営による文化芸術施設運営の契約期間は最低でも10年は必要だと思います。現在、3331の実績を踏まえて「新ちよだアートスクエア基本構想」が検討されていますが(取材当時。令和5年3月策定)、運営者が長期的な見通しをもてる契約期間を考えていただければと思います。

 

●土地に潜在する「地域因子」を活かす

 僕は東京の北東エリアを舞台とする芸術祭「東京ビエンナーレ」でも会場探しや交渉で既存の街と向き合ってきました。街にある可能性を持った物件や人、特産物や風習などを、僕は「地域因子」と呼んでいます。これを明確に認識し、活かすことで、その因子は土地を代表するような文化資本になり得る。大学1年生のときに立川の米軍ハウスを借りて友人たちと初めての展覧会を行いましたが、若い頃から僕には「土地のものを活かす」という発想がありました。実家が秋田で製材所を営んでいた影響があるのかもしれません。このことは、美術家としての自分の表現のあり方とも通じています。

 

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ベネチアビエンナーレの日本館に展示した中村政人《QSC+mV/V.V》(2001年)(R)McDonald's Corporation

 

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中村政人《床屋マーク、ソウル-大阪》(1992年)Photo by Kazuo Fukunaga

 

 僕は「もの派」(※)と呼ばれる潮流のあとに学生時代を過ごしましたが、ある存在がどのような状態にあるのかを、じっくり時間をかけて読み解くことを大切にしてきました。その対象は、実際に作品に使用したこともあるコンビニエンスストアやマクドナルドの看板まで様々です。すでにあるものをじっくり観察し、それが展示空間の中にどのような状態で成立するのかを考えるのです。

 

 このように制作を通して美術館という制度の中での「もの」のあり方を学ぶと、それと並行して街にある「もの」のあり方もよく見えてくるようになりました。街で見かける市井の人たちの創造的な行為や創意工夫は、見ていていつもワクワクします。とくに韓国の市場ではものの並べ方ひとつで売れ行きが変わるので、「そう来たか!」みたいな光景に出会うことも多い。美術の制度に限界を感じていた頃、そうした街なかでのものの姿を観察するのが面白かったことで、アートと街を関係させたいと思い始めました。

 

 3331ではさまざまな経験を通して、地域因子を生かす術を鍛えてきました。以前はアートを社会にどう関わらせていくか、手探りな部分もありましたが、いまでは例えば「企業を成長させたい」「地域のコミュニティを厚くしたい」といったニーズに対して、アートの考え方や方法論がこんな風に使えると自信を持って言えるようになりました。

 

 社会における3331のような場所の評価には、イベント数や集客数、売上といった数字だけではなく、僕たちが創意工夫をしながら積み重ねてきた信用や信頼、目に見えないソーシャルキャピタルこそが重要だと思っています。

 

※もの派
1960年代末から70年代中期まで続いた日本の現代美術の大きな動向。土、石、木、鉄などの物質・物体を素材としてではなく主役として展開した立体作品を手がけた10数名の作家の表現傾向を指した名称。主な作家は、関根伸夫、李禹煥、榎倉康二、原田典之など。

 

●町会や千代田区との連携

 13年間の活動を振り返って一番手応えを感じるのは、やはり町会の方たちとの信頼関係を築けたことです。とくに地元の神田五軒町の町会の方たちとは、お祭りの準備からご一緒する間柄です。それはアート云々とは関係のない話ですが、我々がお借りしている建物はもともとその町会の方たちのご家族が通い、成長してきた場所。僕たちはたかだか10年ほどそこを使わせてもらっているだけですから、町会の一員として自分たちができることは丁寧にやりたいと考えてきました。

 

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2023年 神田祭より

 

 おそらく日本全国のどんなアートセンターや美術館にも、お祭りに最初から最後まで参加しているディレクターはいないんじゃないでしょうか。お祭りは、自分たちの街を自分たちで維持しよう、お互いに助け合おうという自治や公助の精神の賜物です。そして長年続いているお祭りには独自のオペレーションがあり、それを可能にする組織やマネタイズがある。お祭りというのはとてもサスティナブルかつオルタナティブなものであり、僕はそこに参加しながらさまざまなことを勉強させてもらいました。

 

 地域で活動する上で、まずは人に信頼されないと始まらないのは秋葉原 TV の頃から経験を通して実感していました。ただ、東京でそうした関係が築ける場所はそれほど多くないかもしれない。その意味で、3331の立地がお祭りを中心にしたコミュニケーションが根付いた神田の街だったことは非常に大きかったと思います。

 

 もともと「3331」という施設名もこの地域の祭りの最後に行われる「江戸一本締め」という手締めから取ったものです。そうした問題意識をもつ自分たちが、お祭りを通して地域のなかで関係を築くのは当たり前ですし、僕たちがここにいる理由にもなっていました。

 

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ポコラート世界展「偶然と、必然と、」展示風景
(2021年/アーツ千代田3331/千代田区委託障害者アート支援事業)

 

 もうひとつ忘れてはならないのが千代田区と連携した「ポコラート」です。これは「障がいの有無に関わらず人々が出会い、相互に影響し合う場」を作る事業で、3331の立ち上げに合わせてワークショップなどの取り組みを開始し、2011年から2023年まで合計10回の全国公募展と、2021年には世界展も開催しました。

 

 通常は福祉施設の中で行われている行為も、アートの文脈で見ると個人の特別な魅力として捉えることができる。その機会をつくる公募展には美大生やプロのアーティストも参加していたのですが、審査員として平等に応募作品を見ると障がいのある方が作ったものの方が作品として輝いていることも多くありました。

 

 いわゆる「アールブリュット」に特化した組織や展覧会もありますが、ポコラートはそれを専門としているわけではありません。さまざまな背景を持つ人たちがフラットに作品を応募できる機会が1年に1度あることで、普段は意識しない誰かの才能を本人や周囲の人たちが気がつき、応援するきっかけになっていたのではないかと思います。

 

 公的な建物を利用した施設として、民間だけではなかなか手が出しにくいこうした事業を区と連携して続けられたことも、僕たちにとっては大きな手応えでした。

 

●ワクワクと信頼関係で社会を変えていく

 活動を続けるなかで、街の人たちのアート像にも大きな変化がありました。 最初は堅苦しくて近づき難いイメージを持たれていましたが、 展示やアートフェアを見たり、作り手と話す機会が増えると、目も肥えるしアーティストにも慣れてくる。「意外と面白いことを言ってるんだよね」と何かが伝わり始める。今ではちょっとやそっとでは驚かないし、自分で作品を買う人もいました。

 

 印象的だったのは、地元の婦人会のみなさんから言われた一言です。3331ができた当初は「あなたたち、楽しそうね」と言われていたのですが、みなさんは入りづらそうだった。しかし、3331を婦人会の場所として使うようになってからは、ここに来て趣味の話などをするのが楽しみになったと。そして、ある方から「すごくワクワクする。このワクワクするのが“アート”でしょう」と言っていただいたときは、本当に感動しました。千代田区の地域の人たちが応援団を作ってくれたり、街の人たちに深く愛される関係を築けたことはとても良かったと思っています。

 

 3331では地域の企業とのつながりも育ててきました。僕たちの活動が持つ公的な側面や地域をサポートする側面が、企業のブランディングにとってメリットがあると評価された結果だと思います。企業から声をかけていただくことも増えましたが、今までのやり方では埒が明かないという危機感があり、3331のような事業体と組むことで突破できるのではと期待されている。コミュニティだけでは飯は食えないし、産業だけでは町の人との関係がうまく築けない。アートが介在しないコミュニティ×産業だけでは行き詰まる。我々としてはこれまでの取り組みを踏まえて、アートとコミュニティと産業のサスティナブルな関係を追求していきたいと思っています。

 

●東日本大震災からはじまった「わわプロジェクト」

 地域や社会のなかでアートが果たす役割を切実に感じた経験のひとつが、2011年の東日本大震災をきっかけに立ち上げた「わわプロジェクト」です。これは、震災や原発事故などに対して立ち現れた人々の創造力やアイデアや仕組みをつなぎ、創造的に活動する人たちをつなぐプラットフォームで、フリーペーパー「わわ新聞」を発行し、映画祭や展覧会も行いました。展覧会「つくることが生きること」では、アーティストやクリエイター、地元の活動家らによる多様な支援、活動を紹介し、ネットワークを構築しました。

 

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「つくることが生きること」東日本大震災復興支援プロジェクト展(2012年/アーツ千代田 3331)

 

 このわわプロジェクトは、「つくることが生きること」という、表現者のある種偏った価値観を、本当に生きることの基準にしていくにはどうすればいいかを真剣に考える機会になりました。「純粋×切実×逸脱」の切実という言葉はここから生まれました。

 

 なかでも、津波で甚大な被害を受けた岩手県大槌町の吉里吉里で地元の芳賀正彦さんが立ち上げた「吉里吉里復活の薪」の活動には励まされました。これは、瓦礫の中にある廃材から薪をつくって1袋(10キロ)500円で販売し、売り上げを作業した人たちに還元するという非常事態におけるプロジェクトでした。アートには、もちろん、時間が経ってから出来事を内省して作品にするものもありますが、出来事の直後に行動で前に進める創造性もあります。アートは、生活のライフラインにもなりうるのだと実感しました。

 

 ちなみに神田エリアには高齢者も多く、 3.11 のときは未曾有の出来事の混乱の中で避難所である3331に来て避難所開設をすることができなかった。結果、僕が3331でさまざまな指揮を取りました。こうした非常時に、アーティストというのは情報を集めて共有するのが上手かったり、意外とフットワーク軽く動ける。震災の約1週間後には何かできないかと考えたアーティストたちと緊急ミーティングを開きました。また、被災各県に有償でコーディネーターを置き、アーティストたちが現地に訪れた際の窓口になってもらいました。

 

 現在、社会のなかで出来事をきちんと作れる、こうしたアーティストの重要性は増していると感じます。もちろん、社会と隔絶されたなかで作品を磨いていく作り手もいいですが、どんな人たちとも関係を作りながら、自分たちのやっていることがたとえ「アート」と思われなくても、そのなかで何が伝わり、何が創造的に生まれてくるかに賭けるアーティストが必要とされていると感じています。

 

●広がる3331モデル 

 最新のプロジェクトとして、3331が協力し、神田の額縁専門店「優美堂」の建物をリノベーションしたコミュニティアートスペースの運営にも取り組んでいます。東京ビエンナーレの会場としても使用されましたが、優美堂の建物は約80年の歴史を持つ看板建築の傑作です。けれど、僕らが出会った頃は廃墟のようになっており、大家さんは取り壊してビルを建てる計画でした。それを待ってもらい、そこに蓄積する歴史や記憶を見つめ直して優美堂の価値について改めて考えてみたいと思いました。人の最期にお葬式があるように、失われつつある優美堂の存在に思いを馳せ、リスペクトする糊代の時間を作りたいと思いました。

 

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優美堂(東京都千代田区小川町)
上から、改修中(2020年)
改修後(アーティストのO JUN氏によって、富士山の絵が生まれ変わる)

 

 重要なのは、そのプロセスをコミュニティづくりと並行して行うことです。僕はこれまでもアーティストの集まるオルタナティブ・スペースを多く作ってきましたが、今回の対象は地下に防空壕があったような歴史的建造物であり、その価値は僕が自由に考えていいものではありません。それでメンバーを募り、一種の市民活動として、採算性も考えたコミュニティづくりの実験として行い、みんなで汗を流しながら場の意味を考えています。 

 

 この作業を進めるなかで、膨大な額縁のデッドストックを見つけました。それをアーティストに無償で貸したり、販売したりしました。今後は町会でお世話になっている3年ほど前から絵を描き始めた88歳の方の初個展や、アーティストのO JUNさんの個展を企画しています。このような振れ幅が作れること自体が、優美堂という場所の持っている力です。

 

 街なかにある地域因子を読み取り、その空間が次になりたい方向に向けて空間自体が持つ創造性を喚起していく。僕たちがコマンドNの立ち上げの頃から行ってきたこうした考え方は、リノベーションブームもあり、近年は建築やまちづくりの分野にも多く見られようになりました。

 

 ただ、既存のものを工夫して使うワクワク感は専門家だけのものではない。そこでこのプロセスを市民活動のプログラムとして開くことで、誰にでもある創意工夫の精神をともに育むことができないか。価値の掘り起こしを求める「場」とその「使い手」をマッチさせるような仕組みをつくることはできないか。僕たちはこうした仕組みを「アーツフィールド事業」と呼んで、次のチャレンジとして取り組みたいと考えています。

 

 なぜこれが重要かと言えば、場の価値を新しい観点や工夫で発掘する人が増え、そうした意欲を持つプレイヤーを寛容に受け止める地域の人も増えれば、自ずとその街は創造的になるからです。今後はそのように3331で育んできた方法論や考え方を、街のなかに面的に広げられたらと思っています。優美堂は、その挑戦の端緒でもあります。

 

 3331は、日本の地域における文化施設のあり方として、アートとコミュニティと産業が交わる場所として、ひとつのモデルとなる活動をしてきたと自負しています。ただ、それはまだ「モデル」と呼べるほど、いろんな地域で活かされているとは言えません。今後、新しいアートや文化施設を模索する上で、我々がこの場所でチャレンジしてきたさまざまな手法、プログラムの開発や地域連携の仕方、組織の運営などを、ぜひ活用してほしいと思っています。そうして3331の経験がいろんな街に広がっていったらいいなと考えています。

 

中村政人 プロフィール

1963年秋田県生まれ。アーティスト、東京藝術大学絵画科教授・副学長、東京ビエンナーレ総合ディレクター、3331ディレクター。秋葉原電気街の約740台のテレビモニターをジャックしたプロジェクト「秋葉原TV」などアートと社会の接続を試みた作品を発表。1997年にアーティストの実践を通じて社会に影響を与える文化環境を創出するアート活動集団「コマンドN」(2010年にNPO法人化。現在活動休止中)を立ち上げる。千代田区が「ちよだアートスクエア構想」(文化芸術基本条例)に基づき、旧・千代田区立練成中学校をオルタナティブなアートセンターとして運営する遊休不動産再生事業者を公募。中村政人が統括ディレクターとなった「合同会社コマンドA」が事業者に決定し、自ら設計・改修を行い、賃料などにより独立採算で運営する民設民営の「アーツ千代田3331」(千代田区と5年単位で普通財産賃貸契約を締結)を2010年にオープン(2023年3月末閉館)。このほか、富山県氷見市の「himming」、秋田県大館市の「ゼロダテ」、東日本大震災をきっかけに生まれた「わわプロジェクト」など地域再生型アートプロジェクトを多数展開。